人生の中では、誰かの言葉や経験、失敗、出来事などから「教え」を受け取ることがあります。
けれど、その教えがいつも明確な形で与えられるとは限りません。
ある人の言葉の一部しか覚えていなかったり、出来事の意味がその場では分からなかったり、後になって「あのとき言われたことには、こういう意味があったのではないか」と気づいたりすることもあります。
そんなとき、「分からない部分を、自分なりに想像して補ってもいいのだろうか?」と考えることがあります。
結論からいえば、自分なりに意味を補って考えることはできます。
ただし、それは「最初から決まっていた正解を復元する」というより、残された手がかりから、自分にとっての意味を見つけることと考えると分かりやすいでしょう。
教えは、最初から完成しているとは限らない
誰かから教えを受けたとしても、その意味を完全に理解できるとは限りません。
たとえば、
「まず○○する。
次に△△する。
そして□□を経験する。
その先にあるものを____。」
という教えがあったとします。
最後の部分が分からなかったとしても、それまでの流れから、
- 「学び取れ」
- 「実践せよ」
- 「自分のものにせよ」
など、いくつかの可能性を考えることができます。
このとき大切なのは、どれが「唯一の正解」なのかを無理に決めることではありません。
それまでの経験や言葉から、自分なりに意味を見つけることそのものに価値があります。
「学び取れ」という解釈
一連の出来事や経験を通して何かを身につけるのであれば、最後に「学び取れ」という意味を見出すのは自然な考え方です。
たとえば、
- 経験する
- 失敗する
- 原因を考える
- 次に試してみる
- 経験から何かを学ぶ
という流れがあったとします。
この場合、最後に必要なのは単なる「成功」ではありません。
経験したことから何かを学び、自分の中に残すことです。
だからこそ、
「この経験から何を学び取れるだろうか?」
と問い直すことで、出来事そのものが「教え」に変わります。
「学ぶ」だけが答えではない
もちろん、最後に見つかる教えが必ず「学び取れ」という意味になるとは限りません。
状況によっては、次のような意味になることもあります。
- 理解する
- 受け入れる
- 実践する
- 乗り越える
- 手放す
- 伝える
- 自分のものにする
- 次に活かす
- 同じ失敗を繰り返さない
大切なのは、言葉そのものよりも、「この経験は、自分に何を求めているのか」を考えることです。
教えの「空白」を自分で埋める
面白いのは、教えには必ずしも答えが書かれている必要はないということです。
むしろ、答えが分からないからこそ、自分で考えることができます。
たとえば、失敗した経験があったとします。
その経験から、
「準備が足りなかった」
と学ぶ人もいれば、
「一人で抱え込む必要はなかった」
と学ぶ人もいるでしょう。
さらに、
「失敗を恐れて動かないことのほうが問題だった」
と考える人もいるかもしれません。
同じ出来事でも、そこから受け取る教えは人によって異なります。
つまり、出来事そのものが教えを一方的に決めるのではなく、経験した人が意味を見つけることで教えが完成するとも考えられます。
「正しい解釈」と「自分にとっての解釈」は違う
ここで注意したいのが、客観的な意味と自分自身の解釈を混同しないことです。
誰かが実際に言った言葉について考えるなら、
「その人はこういう意味で言ったのだろう」
という推測と、
「私はこの言葉からこう学んだ」
という自分自身の受け取り方は別のものです。
前者は相手の意図を推測すること。
後者は、その経験を自分の成長につなげることです。
後者については、必ずしも「本当の正解」が一つ存在するわけではありません。
教えを想像で補うことには意味がある
分からない部分を想像するというと、勝手な解釈のように思えるかもしれません。
しかし、想像することによって、
「もしこの経験に意味があるとしたら、自分は何を学べるだろう?」
と考えることができます。
これは単なる空想ではありません。
過去の経験を整理し、現在の自分に必要な意味を見つけ、これからの行動につなげるための方法にもなります。
最後に残る教えは、自分で決めてもいい
あらゆる場面で与えられる教えには、最初から明確な「最後の一言」が存在するとは限りません。
経験の途中では分からなかったことが、時間が経ってから理解できることもあります。
だから、「この経験から何を学び取るのか」を自分で決めてもいいのです。
「学び取れ」でもいい。
「実践せよ」でもいい。
「受け入れよ」でもいい。
「次に活かせ」でもいい。
重要なのは、誰かが用意した正解を無理に探すことではなく、自分が経験したことから、自分なりの教えを見つけることです。
そして、もし最後まで答えが分からないとしても、その空白を考え続けること自体が、一つの学びなのかもしれません。
教えとは、与えられたものをそのまま覚えることではなく、自分自身で意味を見つけたときに完成するものでもあるのです。
