人生には、さまざまな資本がある。
学力、知識、職業能力、お金、人間関係、恋愛経験、趣味、身体的な経験、思い出、そして自分が何をしたいのかを知っているという感覚。
これらは、必ずしも同じ方向に増えていくものではない。
ある人は若いうちから人間関係や恋愛に多くの時間を使い、さまざまな経験を積む。一方で、別の人は勉強や仕事に時間を使い、知識や能力、経済的な資産を積み上げる。
どちらが正しいという話ではない。
問題になるのは、ある程度の年齢になったとき、自分がどの資本を多く持ち、どの資本をほとんど持っていないのかに気づくことである。
「もし違う人生を選んでいたら」と考える
勉強を優先してきた人ほど、ときどき奇妙なことを考える。
もし、もっと遊んでいたら。
もし、もっとお金を使っていたら。
もし、学生時代に恋愛をしていたら。
もし、勉強よりも人付き合いを優先していたら。
もし、将来のために貯めるのではなく、そのときにしかできない経験にお金を使っていたら。
今とはまったく違う自分になっていたのではないか、と。
こうした想像は、単純な後悔とは少し違う。
それは、自分が選ばなかった人生について考えることである。
そして、その人生を想像するとき、私たちはつい「経験」の差に注目する。
しかし、本当はもっと多くのものが違っている。
学力も違うかもしれない。
知識量も違う。
職業能力も違う。
貯金額も違う。
人間関係も違う。
恋愛経験も違う。
自由に使える時間も違う。
つまり、「別の人生」とは、単に恋愛経験の多い人生でも、遊びの多い人生でもない。
人生の時間を、何に変換してきたかが違う人生なのである。
時間を何に変えてきたのか
たとえば、学生時代から勉強を続け、大学院まで進み、その後も長く仕事を続けてきた人がいるとする。
子どもの頃にもらったお金や、学生時代に働いて得たお金も、ほとんど使わずに残してきた。
社会人になってからも収入のかなりの部分を貯めてきた。
その結果、ある時点でまとまった金融資産を持ち、専門的な知識や職業能力も身につけている。
これは、「何もしてこなかった」という人生ではない。
むしろ、非常に明確な方向に人生を投資してきたのである。
時間を知識に変えた。
時間を学歴に変えた。
時間を職業能力に変えた。
お金を金融資産に変えた。
その代わり、その時期に経験できたはずの別のものは少なくなったかもしれない。
ここで重要なのは、
「失ったもの」だけを見る必要はない
ということである。
その人が持っている知識や能力や資産もまた、過去の時間を使って得たものだからだ。
人生を「資本の配分」として考える
このような人生を考えるとき、「成功したか、失敗したか」という二択では捉えにくい。
むしろ、人生を資本の配分として考えると分かりやすい。
| 資本 | 積み上げ型の人生 | 経験重視の人生 |
|---|---|---|
| 学力・知識 | 多い | 人による |
| 職業能力 | 多い | 人による |
| 金融資産 | 多い | 少ないこともある |
| 恋愛経験 | 少ないこともある | 多いことがある |
| 人間関係 | 少ないこともある | 多いことがある |
| 趣味・娯楽経験 | 少ないこともある | 多い |
| 思い出・体験 | 少ないこともある | 多い |
| 経済的自由 | 高くなりやすい | 低くなりやすい |
もちろん、これは極端なモデルである。
実際の人生はもっと複雑だ。
ただ、この表から分かるのは、どちらかの人生が全面的に優れているわけではないということである。
積み上げ型の人生には、積み上げ型の強さがある。
経験重視の人生には、経験重視の強さがある。
問題は、自分の人生の配分に偏りがあることに気づいたとき、それをどうするかである。
「学力最大化」は人生のゴールではない
もし、娯楽にほとんど触れず、ひたすら勉強だけを続けられる環境に生まれたとしたら、どこまでも学力を伸ばすことはできるだろう。
数学を学ぶ。
自然科学を学ぶ。
哲学を学ぶ。
歴史を学ぶ。
経済学や心理学を学ぶ。
さらに専門分野を深く掘り下げる。
しかし、そこで一つの問題が生じる。
「何のために学ぶのか」
という問題である。
学力は、それ自体が人生の目的になるとは限らない。
知識は道具であり、その先に何をするかがある。
だから、もし学ぶことを人生の中心に置くのであれば、最終的には、
世界をできるだけ正確に理解し、その理解を使って何かを生み出す
という方向に進むのが自然だろう。
まだ誰も知らないことを知る。
難しい問題を解く。
新しいものを作る。
誰かに知識を伝える。
社会の問題を解決する。
自分が死んだ後にも残る仕事をする。
そうしたところまで行けば、学力は単なる「自分の能力」から「世界に作用する力」へ変わっていく。
しかし、もう一つの問題がある
知識と資産を積み上げてきた人には、別の問題がある。
「これ以上、何を積み上げればいいのだろう」
という問題である。
お金はさらに貯められる。
知識もさらに増やせる。
仕事の能力も高められる。
しかし、それらを増やすこと自体が目的になってしまうと、いつまでも「未来のために現在を使う」ことになる。
その結果、現在が常に準備期間になってしまう。
いつか余裕ができたら旅行しよう。
いつか仕事が落ち着いたら趣味を始めよう。
いつかもっと自信がついたら人と付き合おう。
いつか十分なお金が貯まったら使おう。
しかし、「いつか」は永遠には続かない。
そこで必要になる発想
ある程度のところまで人生を積み上げてきた人に必要なのは、さらに積み上げることだけではない。
これまで積み上げたものを使うことである。
知識を使う。
お金を使う。
時間を使う。
体力を使う。
そして、自分のまだ知らない部分を経験する。
これは、これまでの人生を否定することではない。
むしろ逆である。
長い時間をかけて蓄積してきたものがあるからこそ、それを使って新しい人生を始めることができる。
若い頃の自分にはなかった資産と知識を持った状態で、これまで選ばなかった選択肢を試せる。
「もう一つの人生」を取り戻す必要はない
ここで重要なのは、過去をやり直そうとしないことだ。
学生時代に恋愛をしなかったからといって、学生時代に戻る必要はない。
若い頃に旅行をしなかったからといって、若い頃と同じ旅行をする必要もない。
もっと遊ばなかったからといって、今から無理に遊び人になる必要もない。
過去の自分を別人に置き換える必要はない。
必要なのは、
「あの人生にあったもののうち、今の自分も欲しいものは何か」
を見つけることである。
もし恋愛に興味があるなら、今から経験すればいい。
もし人間関係が欲しいなら、今から人と関わればいい。
もし旅行をしたかったなら、今から行けばいい。
もしお金を使う経験が不足しているなら、未来のために貯めるだけではなく、現在の自分のためにも使えばいい。
それは「真逆の人生」ではない。
これまでの人生に、今まで不足していたものを追加する人生である。
過去の選択が正しかったかを決めなくていい
人生について考えるとき、
「自分の選択は正しかったのか」
という問いを立てたくなる。
しかし、この問いには明確な答えがない。
もし別の人生を選んでいたとしても、その人生が幸福だったとは限らない。
恋愛をしていたら、失恋していたかもしれない。
お金を使っていたら、経済的な不安を抱えていたかもしれない。
勉強をしなければ、今とは違う仕事をしていたかもしれない。
人間関係を優先していたら、現在の知識や資産を得られなかったかもしれない。
つまり、選ばなかった人生は、都合の良い部分だけを取り出して想像できてしまう。
だから、
「あちらの人生のほうが良かった」
と断定することはできない。
ただし、
「自分にはまだ経験していない人生がある」
という発見は、大切にしていい。
次の人生ではなく、次の章を考える
これまでの人生を大きく変える必要はない。
むしろ、これまでの人生で築いたものを捨てる必要はない。
考えるべきなのは、
「ここまで積み上げてきた自分が、これからの時間を何に変換したら、もっと豊かな人生になるだろうか」
という問いである。
これまでは、時間を知識に変えてきた。
お金を資産に変えてきた。
努力を職業能力に変えてきた。
ならば、これからは時間やお金を、
経験、人間関係、創造、貢献、思い出、そして自分自身についての理解
にも変えてみればいい。
それによって、人生全体のバランスが変わっていく。
学力を捨てる必要はない。
貯金を使い果たす必要もない。
仕事を辞める必要もない。
ただ、これまで「将来の自分」のために取っておいた資源の一部を、「現在の自分が生きるため」に使ってみる。
それだけでも、人生はかなり違ったものになる。
最後に
人生は、一つの能力を最大化するゲームではない。
学力だけでもない。
お金だけでもない。
恋愛経験だけでもない。
人間関係だけでもない。
人生の豊かさとは、おそらく、それらをどのように組み合わせるかによって決まる。
これまで積み上げてきた人は、積み上げてきたことを恥じる必要はない。
むしろ、その努力によって得たものは、これからの人生で使うことができる。
そして、もし時々、
「もし違う人生を選んでいたら、自分はどうなっていただろう」
と考えることがあるなら、その問いを後悔で終わらせなくてもいい。
その問いは、
「では、これからの人生で、その世界の何を経験してみたいのか」
という問いに変えられる。
過去の人生をやり直すことはできない。
しかし、過去に選ばなかったものを、これから少しずつ選ぶことはできる。
そしてそれは、過去を否定することではない。
これまでの人生で築いたものを持ったまま、次の人生の可能性を試してみることなのだ。
