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人生をやり直せるなら、いつに戻る?「別の人生なら幸せだったのか」を考えてみた

シンプルライフ
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「もし人生をやり直せるなら、いつに戻りたいですか?」

30代を過ぎると、ふとこんなことを考える人もいるのではないでしょうか。

「あの頃、もっと勉強しておけばよかった」
「もっと努力していれば、今とは違う人生になっていたかもしれない」
「若いうちから貯金していれば、今ごろもっと余裕があったのではないか」
「もっと家族や祖父母との時間を大切にしていればよかった」

私自身も、これまで30数年生きてきて、これまでの人生を振り返る中で、そんなことを何度も考えてきました。

幼い頃から漫画やアニメ、特にゲーム、音楽などの娯楽に夢中になり、それらに多くの時間を使ってきました。

その一方で、学校の勉強など、本来なら努力や時間を注ぐべきだったことには、あまり興味を持てませんでした。

だからこそ、あるとき、

「もし目を瞑って人生をやり直せるなら、いつに戻るだろう?」

と考えてみました。

そして浮かんだのが、記憶に残っている5歳くらいの頃です。

もし5歳の自分に戻れたなら、漫画やアニメ、ゲーム、音楽などを一切省いた環境で、勉強に励む。

実際の人生で選んだ選択肢とは、できるだけ逆の選択をしてみる。

そんな「もう一つの人生」を頭の中でシミュレーションしてみました。

ところが、そこで思いがけないことに気づきました。

「別の人生」を生きた自分も、今の自分を羨むのではないか

最初は単純でした。

「勉強をしていれば、もっと学力が高かったはず」

「もっと知識があれば、違う仕事に就けたかもしれない」

「若い頃からお金を貯めていれば、今ごろもっと貯蓄があったかもしれない」

だから、実際の人生とは逆の道を歩めば、後悔が減るように思えます。

しかし、その人生を30年以上生きた「もう一人の自分」を想像してみる。

その自分は、確かに今の自分より勉強ができ、知識も多く、経済的にも余裕があるかもしれません。

けれど、その人から現在の自分を見たらどうでしょう。

「自分は勉強ばかりしてきたけれど、あの人は子どもの頃からゲームに夢中になった経験がある」

「漫画やアニメ、音楽に没頭した時間がある」

「自分が知らない世界を、あの人は知っている」

そんなふうに考える可能性はないでしょうか。

そして、

「もし自分も、あの人生を歩んでいたら?」

と考えるかもしれません。

そう考えると、あることに気づきます。

人生を別の選択に置き換えたとしても、「選ばなかった人生」を想像する自分そのものは消えないのではないか。

どちらの人生にも「選ばなかった可能性」が存在する

人生には、必ず選ばなかった選択肢があります。

勉強を選べば、「もっと遊べばよかった」と思うかもしれない。

遊びを選べば、「もっと勉強すればよかった」と思うかもしれない。

安定を選べば、「もっと挑戦すればよかった」と思うかもしれない。

挑戦を選べば、「もっと安定を選んでもよかった」と思うかもしれない。

つまり、人生の後悔は必ずしも「間違った選択をしたから生まれる」とは限りません。

むしろ、

「選ばなかったもう一つの可能性が存在する」

ことによって生まれる部分もあるのではないでしょうか。

実際には一度しか生きられないからこそ、「もしあのとき違う選択をしていたら」という想像ができます。

そして、その想像の中では、選ばなかった人生の良い部分だけを取り出して考えがちです。

「もっと勉強していれば、今より賢かったはず」

とは考えても、

「その人生では、今の自分が経験したことの一部を経験していなかったかもしれない」

とは、なかなか考えません。

それでも、二つの人生には明確な「差」が生まれる

ここで、「結局どちらの人生も同じだから考える必要はない」とするのも違う気がします。

なぜなら、人生を別の方向へ進めた場合、明確に差が生まれるものもあるからです。

  • 学力
  • 知識
  • 技能
  • 資格
  • 職歴
  • 収入
  • 貯蓄
  • 資産

などです。

これらは「経験の違い」のように簡単に相対化できません。

実際の人生でゲームや漫画、アニメ、音楽などに多くの時間を使った自分と、その時間を勉強に使ったもう一人の自分がいたとします。

二人はまったく違う経験をしているでしょう。

しかし、学力や知識量を比べれば、後者のほうが高いかもしれません。

30代になった時点で貯蓄額を比べれば、若い頃から計画的にお金を貯めてきた人生のほうが多いかもしれません。

ここは非常に重要です。

経験には優劣をつけにくい一方で、時間を何に使ったかによって、後から大きな差になるものもある。

時間は「何か」に変換されている

人生を振り返ると、時間は何も生み出さずに消えていったように感じることがあります。

しかし実際には、多くの場合、時間は何かに変換されています。

勉強に使った時間は、知識や学力になっている。

仕事に使った時間は、経験や収入になっている。

貯蓄や投資に回したお金は、将来の資産になっている。

趣味に使った時間は、楽しさや経験、思い出になっている。

人と過ごした時間は、人間関係や思い出になっている。

家族と過ごした時間は、家族との記憶になっている。

祖父母と話した時間は、自分のルーツを知る記憶になっていたかもしれない。

だから問題なのは、「娯楽に時間を使ったこと」そのものではないのかもしれません。

むしろ、

「自分は何に時間を使い、その結果として何を手に入れたのか」

を考えることなのだと思います。

「娯楽に使った時間」は本当に無駄だったのか

大人になってから過去を振り返ると、ゲームや漫画、アニメなどに費やした時間を「無駄だった」と評価したくなることがあります。

特に、勉強や仕事、貯蓄などと比較するとそう感じやすいでしょう。

しかし、そこで少し立ち止まってみる必要があります。

子どもの頃の自分にとって、ゲームや漫画は単なる「時間の浪費」だったのでしょうか。

そのときの自分は、それを楽しんでいた。

夢中になっていた。

そこには、その年齢でしか味わえなかった時間もあったはずです。

もちろん、「もっと勉強しておけばよかった」という後悔を否定する必要はありません。

後悔は後悔としてあっていい。

ただ、

「勉強しなかった=その時間には価値がなかった」

とまで結論づける必要はないのではないでしょうか。

そして、もう一つ後悔していること――家族や祖父母との時間

人生をやり直すことを考えたとき、最初は勉強や知識、仕事、貯蓄といったものばかりに目が向いていました。

しかし、年齢を重ねて振り返るほど、別の後悔も大きくなってきました。

それは、

「家族や祖父母と一緒に過ごす時間を、もっと大切にすればよかった」

ということです。

子どもの頃は、家族がいることを当たり前のように感じていました。

祖父母がいることも、話を聞けることも、またいつでもできることだと思っていたのかもしれません。

でも、時間は戻りません。

今になって振り返ると、もっと一緒に話せばよかった。

もっといろいろなことを聞けばよかった。

もっと何気ない時間を大切にすればよかった。

そんな思いがあります。

特に心残りなのが、

「祖父母の声で、先祖のことを聞きたかった」

ということです。

自分の先祖がどんな人だったのか。

どこで暮らしていたのか。

どんな仕事をしていたのか。

どんな出来事があったのか。

家族の中でどんな人だったのか。

そうした話を、書籍や資料ではなく、実際にその時代を知っている祖父母の声で聞くことには、きっと特別な意味があります。

話の内容だけではありません。

声の調子や表情、話すときの間、思い出しながら語る姿。

そうしたものまで含めて、初めて「自分につながる過去」を感じられたのではないかと思います。

自分のルーツについて知りたいと思ったとき、後から資料を探すことはできるかもしれません。

しかし、祖父母本人の記憶や語り口、声そのものを、後から完全に取り戻すことはできません。

そこに、人生における時間の残酷さがあります。

取り戻せる後悔と、取り戻せない後悔

ここまで考えてみると、人生の後悔には、少し種類があるように思います。

「もっと勉強しておけばよかった」

これは、今から勉強することで未来に変えていくことができます。

「もっと知識を身につけておけばよかった」

これも、今から学ぶことができます。

「もっと貯金しておけばよかった」

これも、これからの収入や支出を見直し、少しずつ積み上げていくことができます。

しかし、

「もっと家族と一緒に過ごせばよかった」

という後悔は、同じようには取り戻せません。

そして、

「祖父母から直接、先祖の話を聞きたかった」

という思いも、本人がもういなければ、同じ形では叶えられません。

だからこそ、家族や祖父母と過ごした時間は、勉強や貯蓄とは別の意味で大切だったのだと思います。

知識や資産は、これから積み上げることができます。

しかし、その人と、その年齢の自分が一緒に過ごした時間は、その瞬間にしか存在しません。

「もっと勉強しておけばよかった」だけではなかった

もし本当に5歳に戻れるとしたら、私は以前なら、

「ゲームや漫画などに使っていた時間を勉強に変えたい」

と考えていたと思います。

確かに、それは今でも一つの本音です。

もっと勉強しておけばよかった。

もっと知識を身につけておけばよかった。

もっと将来のことを考えておけばよかった。

若いうちから貯蓄しておけばよかった。

それらは今でも変わりません。

でも、今ならそれだけではありません。

家族や祖父母ともっと一緒に過ごしたかった。

もっと話を聞きたかった。

祖父母の声で、自分の先祖がどんな人たちだったのかを聞きたかった。

そう思います。

そして考えてみれば、これらは「逆の人生」を歩んだからといって必ず得られるものでもありません。

勉強に励んだ人生でも、家族との時間を失うことはある。

仕事やお金を優先した人生でも、祖父母の話を聞く機会を逃すことはある。

つまり、人生をやり直せばすべての後悔がなくなるわけではないのです。

「やり直した人生」は、本当に理想の人生なのか

もし5歳に戻って、今までとは逆の人生を歩んだとします。

ゲームや漫画から距離を置き、勉強に励む。

良い成績を取り、進学し、資格を取り、仕事に活かす。

若いうちから収入を増やし、貯蓄もする。

30代になったとき、その人生は今の自分より「成功している」と感じるかもしれません。

でも、その人生にも失われたものがあるはずです。

今の自分が持っている経験の一部を持っていない。

今の自分が知っている作品や音楽を知らない。

夢中になった時間が違う。

出会う人も違う。

家族との過ごし方も違う。

当然、人生そのものが違う。

そして、その人がさらに別の人生を想像する可能性もあります。

つまり、やり直した先にもまた、

「もし別の選択をしていたら」

という人生が存在します。

人生に「完全な正解ルート」はないのかもしれない

こう考えると、「人生をやり直すなら、どこからやり直せばいいのか」という問いの答えが少し変わってきます。

もしかすると、戻るべき完璧な地点など存在しないのかもしれません。

5歳から勉強していた人生にも後悔がある。

15歳から努力した人生にも後悔がある。

20歳から違う仕事を選んだ人生にも後悔がある。

どの分岐を選んでも、そこから先には別の分岐が生まれます。

だから重要なのは、

「どの人生なら後悔しないか」

ではなく、

「これからの人生で、何を大切にしたいのか」

なのではないでしょうか。

人生で本当に比較できるもの、比較できないもの

今回、もう一つ興味深いと感じたのは、二つの人生を想像したときに、比較できるものと比較できないものがあることです。

たとえば、学力や知識、収入、貯蓄、資産などは、ある程度数字や結果として比較できます。

「こちらの自分のほうが知識が多い」

「こちらの自分のほうが貯蓄が多い」

ということはあり得ます。

一方で、経験はそう簡単には比較できません。

実際の自分がゲームに何千時間も費やした一方で、もう一人の自分が勉強に何千時間も費やしたとします。

二人は、それぞれ別の人生経験を持つことになります。

ゲームを通じて得た経験と、勉強を通じて得た知識を、同じ物差しで「どちらが上か」と評価することは難しい。

だから、二つの人生は単純な上位互換・下位互換ではありません。

違う方向に時間を使い、違うものを積み上げてきた二人の自分なのです。

ただし、その中には明確な差として残るものもあります。

学力、知識、技能、資格、職歴、収入、貯蓄、資産。

ここから目を背ける必要もないと思います。

「どちらの人生も同じ」と無理に考える必要はありません。

実際に、時間を何に使ったかによって人生に差が生まれるからです。

「あの頃に戻りたい」は、「今から変えたい」の裏返しかもしれない

過去を振り返って、

「もっと勉強しておけばよかった」

と思うこと自体は、悪いことではありません。

「もっと家族との時間を大切にすればよかった」

と思うことも、過去を責め続けるためだけの感情ではないはずです。

むしろ、その後悔によって今の自分が、

「自分はもっと知識を身につけたい」

「これからは勉強する時間を作りたい」

「お金についてもっと考えたい」

「家族との時間を大切にしたい」

「まだ話を聞ける人がいるなら、今のうちに話を聞いておきたい」

と思えるのであれば、後悔はこれからの行動に変えることができます。

5歳には戻れない。

10代にも戻れない。

20代にも戻れない。

でも、今の自分がこれから何に時間を使うかは、まだ選ぶことができます。

過去に使った時間を取り戻すことはできません。

しかし、過去を振り返ったことで「これから増やしたいもの」が分かったのであれば、その気づきは未来に使えます。

「もう一人の自分」は、過去を責めるためではなく、未来を考えるためにいる

人生をやり直す想像をしてみると、もう一人の自分が見えてきます。

その自分は、もっと勉強しているかもしれない。

もっと知識があるかもしれない。

もっと貯金があるかもしれない。

違う仕事をしているかもしれない。

一方で、今の自分が持っている経験を持っていないかもしれない。

家族との時間も違っていたかもしれない。

祖父母から聞けたはずの話を聞いていないかもしれない。

では、どちらが本当の「正しい自分」なのでしょうか。

おそらく、そんなものはありません。

二人はそれぞれ違う時間を生き、その時間を別のものに変えてきただけです。

そして今ここにいる自分は、過去に実際に選んできた選択の積み重ねによってできています。

だから、

「あの人生を選べばよかった」

と考え続けるより、

「あちらの人生を想像したことで、自分が本当に欲しかったものは何だったのか」

を考えてみる。

知識が欲しいなら、今から学ぶ。

経済的な余裕が欲しいなら、今から資産形成を考える。

もっと経験したいなら、今から新しいことを始める。

家族との時間を大切にしたいなら、今から一緒に過ごす。

昔の話を聞きたいなら、聞ける人がいるうちに聞いておく。

そして、これまで大切にしてきたものまで、すべて捨てる必要はない。

それならば、「人生をやり直す」のではなく、

今までの人生に、もう一つ欲しかったものを付け加えていく

ことができます。

過去の自分に伝えられるなら、何を伝えるだろう

もし本当に5歳の自分の前に立つことができたら、何を伝えるでしょうか。

「もっと勉強しろ」

だけではないかもしれません。

もちろん、

「もっと勉強しておけ」

とは言いたい。

「もっと本を読んでおけ」

「将来のことも少し考えておけ」

「お金についても早く知っておけ」

とも言いたい。

でも、それだけではありません。

「ゲームや漫画を全部やめろ」とは、もしかしたら言えない。

それらに夢中になった時間も、今の自分の一部だからです。

それよりも、

「家族ともっと話しておけ」

と言いたい。

「祖父母ともっと一緒に過ごしておけ」

と言いたい。

そして、

「祖父母が元気なうちに、昔の話を聞いておけ」

とも言いたい。

「昔はどこに住んでいたの?」

「どんな仕事をしていたの?」

「自分の親や祖父母はどんな人だったの?」

「昔の家族はどんな暮らしをしていたの?」

そんな何気ない質問を、もっとしておけばよかった。

そう思うのです。

最後に――人生をやり直すなら、「過去」ではなく「これから」を

人生を振り返ると、「別の選択をしていたら」という考えは、なかなか消えません。

でも、今回のように逆の人生まで想像してみると、少し不思議なことが分かります。

今の自分が「あちらの人生」を羨むように、あちらの人生の自分も「こちらの人生」を想像するかもしれない。

どちらの人生にも、手に入れたものと手に入らなかったものがある。

経験の内容は違っても、学力や知識、収入、貯蓄などには確かな差が生まれる。

そして、家族や祖父母と過ごした時間のように、後から同じ形では取り戻せないものもある。

だから、「何を選んでも同じ」ということではありません。

人生の選択には確かに結果がある。

ただし、その結果だけを見て、「選ばなかった人生のほうが正解だった」と決めることもできない。

なぜなら、その人生にもまた、別の「もしも」が存在するからです。

もしかすると人生とは、

「後悔しない選択を探すこと」ではなく、「選んだ人生の中で、これから何を積み重ねていくか」を考え続けること

なのかもしれません。

「あの頃に戻りたい」と思ったとき、本当に戻りたいのは過去そのものではなく、

「あの頃からやっておけばよかったことを、今から始めたい」

という気持ちなのかもしれません。

5歳には戻れなくても、今日という一日はまだ選べます。

これから知識を増やすこともできる。

これから貯蓄を始めることもできる。

これから新しい経験をすることもできる。

そして、今そばにいる家族と過ごす時間を、これまでより大切にすることもできる。

まだ話を聞ける祖父母がいるのなら、今からでも昔の話を聞いてみる。

先祖について知りたいのなら、残っている家族の記憶を尋ねてみる。

その声を聞けるうちに聞いておく。

そうして今から積み重ねる知識や経験、仕事、資産、そして家族との時間もまた、未来の自分にとっての「過去」になります。

そのとき未来の自分が振り返って、

「もっとこうしておけばよかった」

と思うことは、きっとあるでしょう。

それでも、

「あのときから始めておいてよかった」

と思えるものを、今から一つでも増やしていく。

そして、

「もっと一緒に過ごせばよかった」と思う時間を、これからは少しでも大切にする。

それが、過去に戻れない自分にできる、いちばん現実的な「人生のやり直し」なのかもしれません。