終わりを前にして思い残すことはやり残したこと?思い出?

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家にあるモノを整理していて見つけたのは、まだ子供が小さかった頃の家族写真。

それは8年前のプリクラ機による写真で、最初で最後とも言えるべきプリクラの家族写真。

若き20代半ばでありながら長髪に髭を蓄えていた自分の姿を見るに、何もない部屋やモノを持たない生活に居心地を感じていたのが懐かしい。

今じゃミニマリストがどうあるべきとかすらもどうでもよくなってきたところ。

無意識のうちにモノの有無にこだわる執着すらも手放すに至った。

自分の人生の終わりをいつにするかと計画するまでもなく、人の終わりは唐突にやってくるものだろうからいつでも良いと構えてるスタンス。

流れるままに生きて流れるままに終わりを迎える。

そう考えた時に、あくせく働いたり、何かに夢中になって没頭している時間がもったいなく感じたりもする。

家族と過ごす時間は限られているし、当然ながら子供の成長も止まることはない。

好きなことに夢中になり過ぎるのも、人生において最も貴重な時間を使ってしまうことには変わらないから色々と見極めが必要で。

ましてやお金が入ってくるための道を自分1人の労働一本だけに全振りするのはリスクが大き過ぎる。

自分の労働を常に必要としない、利益が発生する再現性のあるビジネス。

この仕組みを構築し、家族との時間、人生の終わりまでの限られた時間を楽しく過ごす。

結局のところ

20代前半からずっと考えていたこと、追い求めていたことは10年近く経った今でも変わらないってこと。

根本から自由時間は欲しいし、家族と楽しく過ごせる時間を削ったり、自分の意見を黙し心身共に疲弊してまで他人の顔色を伺ったり同調圧力に心を捻じ曲げられて労働する稼ぐ方法は、長期的に見てデメリットが大き過ぎた。

学校の勉強は好きじゃなかったけど、自分にとって必要だと感じることに関してはまっすぐに学び出すこともわかったことだし。

失った時間は大きいけどそれと同時に沢山の学びと楽しかった思い出という大きな収穫を得られたから決してムダではなかったな。

自分の人生の最後の瞬間には、やり残したこともなく楽しかった思い出達と「今 = この瞬間」が全て、

と終わりを受け入れる覚悟を背負って今これからの時間を過ごして生きよう。

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